国語史資料の連関

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2003-02-21

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 フランスの首都パリーに、レオン・ド・ロニイといふ一奇人あり。いまだ日本に来遊せざるも、非常の日本好きにて、日本の本も読み、日本人と話も出来、日本に関する著書も薄つぺらのもの十余種に上り、日本文字新聞をも出せり。

 文久二年七月、福沢諭吉が、幕府の使節に随ひて、あちらに往きしとき、このロニイが、趾を追ひて魯国まで往きしことが『西航記』に見ゆ。

 今度又、日本人を尋ねんとて、別林《ベルリン》に来りしが、余輩已に同所を出立せり。因、又別林よりペトルブルクに来れり、別林よりペテルの道程八百里、火輪車にて此鉄道を乗るに、入費四百フランク、唯日本人を見んが為めに来る。欧羅巴の一奇士と云ふべしと。

 慶応元年の閏五月、福地源一郎が、幕府の使節について、パリーに往きしが、此ロニイに語学を習ひ、勧めらるゝまゝ、ロニイが主宰する東洋アメリカ人種学会に入会し、日本の支部長となれり、併し、福地は、帰国して後、人種学について、何の研究を為せし話もきかずに止めり。

 成島柳北も、仏国に遊歴中、このロニイに交渉ありし。柳北の『航西日乗』中、ロニイの記事三則見ゆ。「明治六年一月八日、路尼氏を訪ふ、在らず」、「同二月二十日、ロニイ氏を訪ふ、氏の家は、ポトクウルセル郭門外に在り、氏蔵書数十巻を出し、余に示す、余、原田氏と共に同氏の人種論新著書の会社に加入せり」、「三月十一日、小野石川二氏と、ロニイ氏を訪ひ、其社に入り、金を附し、証書を受取る」。ロニイの人種学会に入会し、その会費を納めしなるべし。