1996-01-10
■ [謡曲共通語][言語伝説]武家共通語と謡曲
(『雅俗』第3号 特集 都中の鄙/鄙中の都
江戸時代の方言分布のおおまかな状態は越谷吾山の『物類称呼』(安永四年)等*1によって知ることが出来、語彙的な分布は、『日本言語地図』などで見る現在の状況とさほど変わっていない、といわれる。しかし、江戸時代の共通語・あるいは方言間の言語交流の状態はどうであったのかを考えると、人々が全国どこでも自由に行き来できる現在とは、大きく異なっていたのではないかと思われ、異なる方言の話者と会話するということは殆ど無かったのではないかとも思われる。
甚だしくは、幕藩制でわざと方言を複雑化した、という俗説もあって、たとえば、薩摩では言葉を暗号化し、わざとわかりにくくしたということが言われる。また、これは一時代前のことになるが、中部地方などで「行こう」の意味で使われる「行かず」などの「ず」は「むず」「んず」の変化したものであるのだが、甲州では武田信玄が敵を欺くために否定の「ず」を肯定の意味に使わせたのだ、などという。
このように人為的に言語を改めさせることまではありえまいが、たしかに方言の境界線である等語線が藩境と一致することもあり、関所の存在もあって、言語の交流は抑えられていただろう。しかし異なる方言話者との会話が全く無かったというわけではあるまい。特に武士にあっては、参覲交代ということもあり、江戸に諸藩の武士が集い、話を通じさせねばならぬ状況にあったはずである。
「なまりは国の手形」という言い方は、たとえば寛政九年『新噺庚申講』(噺本大系 第十三巻)に見えるが、このような諺のあるのは異なる方言の話者が接触することがあったことの証拠とも言える。また、天明八年の古川古松軒『東遊雑記』巻之八(平凡社東洋文庫二〇二頁)に、
南部の地にては言語の通じ難きことありとて、盛岡城下より通辞の者を二人ずつ付け給いしに、この所においては通辞の解せざることのありし……
とあるが(平凡社『日本語の歴史』6などにも引く)、通辞が居たというのは、方言差の甚だしさを表すのと同時に、地方語と共通語(備中人である著者古松軒と、江戸の人と思われる幕府の巡見使と、南部藩の人との間に通じる言葉)との両方を操れる人物が居たことをも示すものである。しかも「解せざることのありし」というぐらいであるから、通辞専門職というわけではなく、江戸でも南部でも会話に不自由しない人物が、巡見使一人につき二人ずつ付けられるほどいたことがうかがえる。
新井白石『西洋紀聞』(正徳五年)上巻(『日本思想大系』一一頁)でも、
凡そ五方の語言同じからねば、たとへば今長崎の人をして、陸奥の方言聞しめむには、心得ぬ事多かるべけれど、さすがに我国の内のことばなれば、「かくいふ事は、此事にや」と、をしはからむには、あたらずといふとも遠からじ。
と、方言が違いながらも、全く分らないわけではあるまい、と言っている。
頭陀楽雲水「奥九旅人/井中水」(文化五年)は、吉町義雄「『奥九旅人井中水』の方言価値」(『九州のコトバ』昭和五一 双文社出版、もと東北大学『言語』二 昭和一三)で紹介され、近世文芸叢刊『上方滑稽本』(昭和四五)に影印されているが、これは薩摩の武士と、仙台と思われる奥州の武士とが京都見物をする話である。当然、方言差が有ることが趣向なのだが、意外なことに、言語が通じなくて困るという記述は少なく、この二人が酔ったときの言葉を京都の人が聞取れない、ということが出てくるのみで、それ以外の場面では俚言混じりの言葉を、読者は横に付された傍注で意味を辿ることが出来るわけだが、作中人物同士も結構通じていることになっている。
右は京都でのことだが、江戸においても式亭三馬が『狂言田舎操』(文化八年)や、『四十八癖』(文化一四年)*2で記すように、江戸には諸国の人が集り、全国の言葉が通じる、と考えられていたようである。これは式亭三馬ら江戸の人が勝手にそう思っていたのかもしれないが、諸国から出てきた人々は訛りを出しながらも江戸の人々と話を通じさせていた、と考えることも出来よう。ともかく当時、江戸に集った諸国の人々がみな筆談で用を足していたとは考え難いし、共通語というようなものがあったと考えておかざるをえまい*3。
ただ、これが現代の共通語の直接の祖先にあたるものかどうかは別問題である。江戸語・東京語・現代の共通語の関係については諸説あって、「江戸語」といった場合、それが町人だけの言葉なのか、武士も使うものなのかという問題であるとか、それがどのように東京語になり、さらに共通語の土台となっていったのか、という点でいろいろな考え方があるのである。
江戸時代の共通語として、「江戸共通語」また「武家共通語」あるいは「共通教養語」といった呼び方がある*4。呼び方の違いは論者の考え方の違いを反映している部分もあるのだが、本稿はそれを穿鑿するのが目的ではないし、話題とするところが武士が登場人物となる逸話なので、以下「武家共通語」と呼ぶことにする。
さて、この「武家共通語」が江戸だけで行われたものなのか、全国への広がりをみせたものなのか、という点に関しても見ておきたい。
島田春雄『明日の日本語』(昭和一六、冨山房)に引く、元禄ごろの『葉隠』(岩波文庫上四三頁)では、大阪がえりの藩士が上方の言葉を話し笑われた、とした上で、
と記している。上方や江戸から国元へ戻っても、江戸や上方の言葉が口から出てしまう人も多かったのであろう。九州という土地は現在でも、東京帰りだからといって東京風の言葉遣いをする人を揶揄する風潮があるが、それを避けるために意識して方言を出すというのは面白い。しかしこうした風潮のないような地方では、江戸や上方の言葉が広がることもありえたであろう。
また、薩摩では南山公の時代に大阪語を薩摩人に習わせようとした事があったと伝えているそうだが*5、特に西日本では上方のことばを土台とした共通語のようなものもあったのかもしれない、と思わせる。
全国的にみても規範的なものとしては京都の言葉が考えられていたようで、幕末ごろの外国人の記載にもあるのだが、菊池武人『近世仙臺方言書』(平成七、明治書院)にひく、『甲子夜話』正篇第一一巻[二六]話(平凡社東洋文庫『甲子夜話1』一九四頁)の、
先年聞たるは仙台侯の国元にて生長せられし息女、奥州言葉なれば、都下へ出て他に嫁せられしとき、如何あらんとて、父侯京の婦女を召下して息女につけて、言葉づかひを聞習はせられしが、月日を経る中、いつか京女仙台言葉になりにけるなり。
という記事も興味深いものである。
吉町義雄「大和口上言葉集」(『九州のコトバ』昭和五一 双文社出版、もと『文学研究』三四)が翻刻紹介する資料は、琉球の人が薩摩訛りの江戸の言葉(大大和口)を覚える様子がうかがえる書である。また奥里将建「大和口上物語集とその検討」(『方言』八―二 昭和一三)は同じく上方の言葉を学んだ資料とみなされている。
方言の甚だしいことの代表とされる薩摩にして、このように大阪の言葉や江戸の言葉を学んでいるのである。逆に、方言差が激しいからこそ共通語を求める気持が強いともいえるが、全国的に見ても、〈聞き取ることが出来ない〉というほど訛った方言しか話せないというような人物は、少なくとも他地方に出て行く機会の有る武士の中には少なかったのではないかと思える。
○
これまでに述べたような武家共通語というものがあったとすると考え難いことなのだが、江戸時代(特に幕末)あるいは明治初期、西国の武士と東国の武士が出会ったところ、方言差がひどくて話が通じないために、しかたなく謡曲を使って話をした、ということがしばしば言われる。例えば司馬遼太郎の小説「王城の護衛者」でも、「左兵衛の会津なまりがひどすぎて理解にくるしむ、というのである。左兵衛はやむなく、謡曲の文語を藉りて朗々と声を張りあげた」と使われるなど、広く知られている話のようである*6。
これを単なる〈伝説〉である、と言ってしまえばそれまでであるが、伝説であるにしても、なぜそのような伝説が生れたのかということを考えねばなるまい。また、もしこれが事実に基づく話だとすると、どのような背景の下で行われたものなのかを考えるべきであろう。
この伝説を記録したものは、今のところ明治時代になってからのものしか見出しておらず、一番古いものとしては、明治一八年六月三〇日「自由燈」社説、朝寝坊「東京語の通用」がある。その他にも、明治二四年の『明治豪傑譚』*に見えるように薩摩藩の黒田清隆と秋田藩の添田清右衛門(あるいは清左衛門)との間の逸話、と具体的人物の名を挙げているものもあるなど、明治以降、この話〈謡曲共通語〉の存在は、かなり信じられていたと見られる。
信じ難いようではあるが、もしそのようなことがあったとすると、どうして武家共通語を使わずに「謡曲共通語」を使ったのであろうか。ひとつ考えられることとして、武家共通語を使うことの出来る人々は〈教育のある階級〉の人であったのだが(ヘボン)、「謡曲共通語」の逸話の場面とされることの多い幕末には、武士でも比較的下層で、本来であればずっと国元にいる筈の郷士などが多く他国へ出向くようになり、異方言と接触する機会を持った、ということがある。逸話の舞台として、薩摩藩士が戊辰の役の頃に奥州の人々と、という場面が掲げられるのを考え、また能楽であれば武士の占有物であったろうが、謡曲となるとかなり広く行われていたらしいということを考えると、この「謡曲共通語」の存在も全くありえないこととしりぞけてしまうこともできまい。
ただ、実は上に挙げた朝寝坊「東京語の通用」もそうなのだが、土子笑面『話術新論―一名講談落語の論―』*(明治二二、哲学書院)、堀江秀雄『言文一致文範』*(明治四〇、博文館)、日下部重太郎『国語百談』*(大正四、丁未出版社)、下田歌子「都会の婦人と地方の婦人の接近」*『婦人世界』八一三(大正二)、といったところでは、これを幕末の逸話としてではなく、薩摩と仙台など、遠方の大名間の婚礼の打ち合せのための際の話としている。こういう場合であれば、〈教育のある階級〉が交渉にあたるはずであるから、武家共通語を使えばよさそうなものだが、時代は幕末ということではなく、武家共通語の成立する以前の話、と考えることによって、納得することが可能であろうか。
つぎに湧く疑問として、〈どうして共通語として採用されたのが謡曲であったのか〉ということがある。
まず、考えられることは、能楽・謡曲が発音を重視するものであったことである。能楽ならずとも、演劇*7は発音を重視するものであり、それが共通語の土台ともなる、ということは、ドイツに於けるビューネンシュプラーハなども思い起されるのだが*8、日本でも幸若が、
日本で通用してゐた甚だ丁寧で上品な談話のと同じである。話し言葉と書き言葉を混合したものであって、誰にでも理解される(土井忠生訳『ロドリゲス日本大文典』六六四頁)
というように、耳で聞いて誰にでもわかる、とうことは重要なことであった。
能楽・謡曲においては、たとえば慶長十一年『金春安照秘伝書』(『能楽資料集成九金春安照伝書集』昭和五三、わんや書店 四二頁)に、
右四十五字の大事といっぱ、あいうゑをの五字に極る也。(中略)是を常に覚えて人の前にて物をいふならば、字、なまる事有べからず。
と見える。また、庄内の訛りについて記述してある氏家剛太夫『荘内方音考』(天保五年)にも、
謡等うたふ人は必ず正音に呼ぶべき事なり
などとあり、謡曲が発音を大事にしていたことがうかがえる。また「観世清廉芸談」(広田光吉『能楽大観』明治三七、檜謡曲書店)でも、まず発音をしっかりとしてから小謡を教える、という記述がある。
このような謡曲の発音重視から、謡曲で話せば訛りが消えてしまう、と考えたのではないかと思われるのである。また「京都にゐた能役者は極少数の例外を除けば、皆諸大名の禄を食んでゐた」(坂元雪鳥『能楽筆陣』昭和一二、謡曲界発行所)し、国元で能を教える能役者も必ず江戸で修業をつんできたという(中森晶三『能のすすめ』*玉川選書 昭和五一)。謡曲の言葉に、都の言葉、という規範意識を感じることもあったであろう。安藤正次が土地の古老から聞いた話として、「新庄藩で土地の言語改良を思い立ち、江戸から先生を招いたことがあるが、その先生というのはうたい(謡曲)の先生であった」(三宅武郎「方言と標準語」*安藤正次編『国語の概説』昭和二七)という話も伝わっている。
さらに、謡曲には地方差が無いのだ、という記述をしている文献がある。三浦庚妥の『音曲玉淵集』*(享保十二年)がそれである。「西国のはしの人と奥州の果の人と行あひ諷合てもそろひ」とあるところから、これを「謡曲共通語」の記録と見る考え方もあるが(吉町義雄)*、この記述は、拍子について記した巻三の「拍子の論根元の弁」にあり、言葉ではなく拍子のことを説明した個所である。拍子のことにせよ*9、〈謡曲は全国どこでも同じ〉ということがあり、それに〈謡曲の発音重視〉が結び付けば、〈謡曲の言葉は全国どこでも通じる〉という発想に行き着くのは簡単なことのように思える。
○
さらに言葉がうまく通じないときに謡曲を用いる、ということで思い出すのは、吃音の例である。一般的に歌を歌うときには吃音は出ないとされ、また田中角栄は吃音を克服するために浪花節を用いたと言われるが、伝統的には謡曲である。狂言の「どもり」はそれを題材にしたもので、例えば和泉流の『狂言六義』によれば、
それがしは、どもりの事なれば、申事の、わけが、きこへまらせぬほどに、うたひぶしにて、あれがもってまいった物を申てきけまらせうと云
とある。大蔵流の虎明本・虎寛本でも同様で、また『狂言記拾遺』にも見えるものである。この狂言をもととしてか、元禄一六年の雑俳「すがたなぞ」に、
さっぱりと吃の小歌の取て置
どもなれどなにも謡はきようにて
と見えるし、元禄一一年刊『初音草噺大鑑』(噺本大系第六巻)所収の「どもりの音曲」には、
謡の師をする人、三平といふ下人をつかひしが、大きなるどもりなり。されども謡を聞とりてうたふに、少もどもることなし。あるとき、さるかたへつくゑを一きゃくかりにつかはしけるに、門口から、つ、つ、つとばかりいふて出かねければ、いよ/\せきて、ゑ、ゑ、/\をと、もがきてわけしれず。亭主、かしこき人なればやがて心得、「是なる三平ハ何事にてわたり候ぞ」といひかけければ、三平「さん候。机を一脚御かし候へ」と、らちがあいた。
とある。さらに、宝永五年の近松門左衛門『けいせい反魂香』(日本古典文学大系『近松浄瑠璃集下』一四〇頁)にも、
敵に向って問答せんこといかゞあらんとの給へば。女房聞きもあへず。常々大頭の舞を好き。わらは諸共つれわきにて舞はれしが。節の有ることは少しも吃り申されずと言ふ。
とある。このように、節の有るもの、特に謡曲で吃音を免れることは比較的知られていたことであった。
その上で、地方的音訛が吃音と同様の、一種の言語障害の様に考えられていたようだということがある。古く『拾遺和歌集』四一三の、
あづまにて養はれたる人の子は
舌だみてこそものは言ひけれ
というのは、地方的訛りを舌の歪みと見ているのであろうし、新しいものでも、『新聞集成明治編年史』十二によれば、明治三六・三・七の『時事新報』に、
伊沢修二氏は……楽石社と称する一社を設け、[……]東北九州其他の地方の訛言を矯正し、或は吃者を治し唖者に発言せしむる等のことをも伝授し得るに至れりといふ、
とあり、地方的訛りと吃音などの言語障害との同一視が見られる。したがって、〈吃音を謡曲で克服できる〉という知識を持っている人が、自分の言葉に訛りがあると認識した場合、その訛りをなくすために謡曲を用いた、ということは充分ありうるように思える。また実際にそのようなことはなかったとしても、少し後世の人が、〈訛りを謡曲で克服する〉という伝説を作り出したということも、以上のような背景を考えると、いくらでもありそうに思える。
○
実は、「謡曲を使って会話」と言った場合、〈謡曲の節まわしを使って〉という意味の他に、〈謡曲で使われているような言葉を使って〉という意味で言っているのだとも考え得る。「謡曲の調子を以て」(『明治豪傑譚』*)「謡の口調で」(野上豊一郎「謡曲と狂言」*『国語文化講座 四 国語藝術篇』昭和一六、朝日新聞社)「謡曲の文句に節をつけて」(小林存「方言交流論」*『方言研究』四 昭和一六)「謡をうたって」(石黒修『日本の国語』*昭和一八、増進堂)と明記してあるものもあるが、「謡本の候言葉を使ふて」(朝寝坊)「謡の詞で」(観世清廉談「発音の話」*『能楽』一八、明治三六など)「謡曲の言葉を使って」(下田歌子*)というのも多い。どちらが実際の話であるのか(あるいは伝説の古い形なのか)は分らないが、謡曲の言葉でとなると、これは文語調*で、というのに近く、一般的な武士の言葉への印象と程近いものになる。
また、前掲の『大和口上言葉集』は、武家共通語の一端を見せてくれるものと思われるが、「御座り申す」というような言い方に混じって、候文も見受けられる。これは書面語であるのだろうが、それを読み上げるようなこともあったと思われ、これを「謡の詞で」と表現した可能性もある。つまり、「謡をうたって」というのはそれを潤飾したもの、という可能性である。
さらに、そうした口上書を読み上げるときの抑揚などが謡曲の調子に似ていて、それを聞いた人が謡曲で会話していると勘違いした、という可能性を、筆者が方言研究会で発表した後の直話で、田中章夫氏が示された。確かに、現在でも賞状を渡したりする時の抑揚や、開会宣言などの調子は、普通の話し言葉とは違って独特のものがある。当時の読み上げ方がどのようなものであったのかはわからないが、謡曲の「詞」の部分や、「節」でも強吟の部分などに聞き間違えられることがあったかもしれない。
○
以上、「方言差を謡曲で克服した話」――〈謡曲共通語〉伝説について、これが生まれた背景について考えてみた。さらには、この伝説がいろいろな文脈の中で微妙に意味合いを変えて言い伝えられてきた(まさに「伝説」と呼ぶにふさわしい)ことについても考えたいところだが、別の機会を待つことにする。
本稿には煩雑を厭って掲げなかったが、この伝説に言及している資料は、ごく新しいものも含めて、発見できた限り『日本方言研究会第五九回研究発表会発表原稿集』*(平成六)に収めてある。公刊されたものとしては以下の参考文献がある。
なお、謡曲を使えば訛りを実際に克服できるかどうかを考えるのは、本稿の目的ではない。これについては、武井睦雄「謡曲は方言差を克服しうるか」(『月刊言語』昭和六三―一二)を参照されたい。
この〈謡曲共通語〉の話を言語生活史上に位置付けるべきことだということを指摘され、筆者の報告を喜んで下さった徳川宗賢氏、また方言研究会の席上で貴重なるご意見を賜わった諸氏、特に武家共通語との関係を考えるべきだという御指摘を戴いた田中章夫氏、また『話術新論』の記事をご教示下さった山田健三氏に、感謝申し上げます。
*1:江戸時代に編まれた方言書や、方言で書かれた文献は大田栄太郎『郷語書誌稿』(昭和五八、国書刊行会)などを参照。
*2:土屋信一「式亭三馬の江戸語観」『国語学』一三一 昭和五七)
*3:この場合、「共通語」は「全国共通語」ではなく、〈言語を異にする人々の間で用いられる媒介の言葉〉というような意味である。
*4:中村通夫「「江戸語」について」『中央大学文学部紀要』一一(昭和三七)、小松寿雄「江戸語の形成」『松村明教授還暦記念国語学と国語史』(昭和五二)、森岡健二「口語史における心学道話の位置」『国語学』一二三(昭和五五)、土屋信一「江戸共通語をめぐって」『香川大学国文研究』一二(昭和六二)、杉本つとむ『東京語の歴史』(昭和六三)など。
*5:東条操「鹿児島方言文献について」『鹿児島教育』四七〇(昭和七)。
*6:小松左京*・高田宏*・谷沢永一*・堀田善衛*・陳舜臣*・網野善彦*といった人も記している。
*7:能楽が演劇であるか否か、ということがかつて議論されたこともあるようだが、取り敢えずここでは、舞台上から言語が発せられるのであるから演劇と見てよいだろう、と考える。
*8:上田萬年「演劇上の言語」*『国語学叢話』(明治四一、博文館)、保科孝一『言語学』*(刊なし)など、明治時代以降、標準語を論じる際などによく言及された。
*9:能において拍子が大事なものであることはいうまでもない。