1861-02-10
■ 昇曙夢による西郷菊次郎の誕生前後の記述
いろ〳〵な出来事の多かった年も暮れて西郷は二度目の正月を島で迎えた。年号も改まって文久元年*1である。元日 西郷の幽居は年頭の客で賑はった。家主の佐運も例年の通り帰って来て任地の面白い出来事などを語って西郷を喜ばせた。午過ぎから佐運兄弟や年頭客に伴れられて、年頭廻り旁々村に出懸けた。村では身体が幾つあっても足りない位に、村中から引張り凧にされた。満二年も島に居る間には一寸した挨拶や戯談囗など島の言葉でいへるくらいになってゐたので、西郷がさうした島言葉を用ゐると、村人は無性に喜んで非常な名誉のやうにさへ有りがたがるのであった。
すべてが平和であり歓びである。平素は傲慢無慈悲な役人共に苦しめ苛まれて、凡ゆる自由と歓楽とを根こそぎ奪はれた島人にとって、四季折々の節句は唯一の慰めの日であり歓びの日である。中にも正月には大抵の家では豚を屠って二十日までの間祝ひ続け、楽しみ通して一年中の苦しみを忘れるのである。
(12行略。龍郷付近の習慣)
「私も根っから島人になり切りもした。」
夜遅く佐運兄弟と連れ立って帰るとき、西郷は二人を顧みて愉快さうに笑った。
「先生には甚だ御気の毒ですが、私共としてはいつまでも留っていたゞき度い気持ちがします。」と、佐運はそれに答へた。
「有りがたいことでごわす。今年もまた呼び返されもさんことでごわんそ。もう馴れもしたで苦にもなりもさんわ。」
「先生の御話しを承りましても時勢が時勢でございますから、きっと近い内には目出度い御沙汰もあることでございませう」
「迚も見込みはごわん。藩の方ぢゃ一日でも長く島に押込めて置いた方が都合がよろしゅごわんそで、それに又今戻って見ても時勢おくれで何の役にも立ちもさんわハッハヽヽ……」
「村のことや家のことを思ふといつまでも留っていただき度いし、国家のためには一目でも早くと御沙汰が待たれるし、妙な心持ちでございます。」
「有りがたうごわんす。私ももう何も考へんで、じっと島に落着くことに決めもした。結局そん方が気楽ごわんで。」
翌二日 愛加那が男の子を擧けた。龍家一族はもとより村の人々は正月に重なる喜びとして、心から祝ひ合った。木場も重野も遙々祝ひに来て呉れた。島の習慣に従って出し初めの式を行ひ、菊池源吾の変名を用ひて大島に流謫されたことを永く記念する意味で菊次郎と命名した。
(中略16行)
初めて父親となった喜びは何物にも譬へ難いほど大きなものである。況んや幽囚のうちに、幾多の不満や不自由に苛まれてゐる身にとっては全く夢のやうでさへある。肉を分け血を分け魂を分けた我子と名づける者を目の前に見出したことは、非常な力強さであると同時に慰めである。我が子を透してほんとうに自分がこの世に生れたことの幸福が感じられて、心から感謝し度い気持ちである。たゞこの可愛い者を嫡子として公然披露し得ないことは、なんとなく心苦しく済まないけれど、却ってそれだけに愛する情は深刻である。(これ以下、昭和52年版になし)この大きな喜びの前にはさうした形式や、育てゝ行くといふ責任感などは全く影を潜めて、たゞ嬉しいばかりである。西郷の心情は実にこの通りであった。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001435057-00
「中略」は昇曙夢『西郷隆盛獄中記 奄美大島と大西郷』(新人物往来社 昭和52年3月15日発行 坂元盛秋編)の中略箇所。