国語史資料の連関

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1187-03-09

唐物語・張文成 唐物語・張文成 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 唐物語・張文成 - 国語史資料の連関 唐物語・張文成 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

むかし、張文成といふ人ありけり。姿ありさなまめかしくきよげにて色を好み情身にあまりければ、世にありとある女、さながら心強くは覺えざりけり。そのころ、時に逢ひ華めかせ給ふ后おはしましけり。數多のなかに萬勝れてなむ聞えさせ給ひければ、この男人やりならす物思ひに沈みて生けるかひなくそおぼえける。かゝるまゝには、寢ても覺めてもこの事の忍び難きを又言ひ合する人だになかりけれど、芹を摘み、地【二字みしちイ】に臥して年比になりぬれは、さるべきことにや、淺からぬ心のうちをそらに知らせ給ひにけり。哀にいみしく思されながら心に任せぬ御身のふるまひなれば、慰む方更になくて明し暮すに、いかなるひまかありけむ、夢にゆめ見る御心ちして下紐解けさせ給ひにけり。血の涙袖に包むぺき心ちもせざりけれど、唐國のならひにてかやうの事世に聞えぬれば、いみじき大臣公卿なれどもたち所に命をめさるゝ事なれば、又もあひ見給はす。后も哀に類ひなく思されながら、雲のかけはしとだえがちにて踏み傳ふばかりの道だになければ、この男たなばたの年に一夜の契をさへ羨みて、人知れぬ涙のみぞ絶ゆる時なかりける。かゝれども、あわたゞしく色に出す事やなかりけむ、物や思ふと問ふ人だになくて年月を送るに、わりなくいみじく覺ゆるよしの文を作りて后に奉りける。

 「戀ひわぶる底の水屑となりぬれば逢ふ瀬くやしきものにぞありける」。この文は遊仙窟と申して我が國にも傳はれり。后これを見給ふ度に、御身亡びぬべく思されけり。唐の高宗の后に則天皇后の御事なり。

国文大観