国語史資料の連関

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1187-03-02

唐物語白樂天 唐物語・白樂天 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 唐物語・白樂天 - 国語史資料の連関 唐物語・白樂天 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

昔元和十五年の秋、白樂天罪なくして江洲といふ所に流されぬ。その次の年の秋、入江のほとりに夜友を送りけり。松風浪の音を聞くに、愁の涙いと抑へがたし。かくて小夜も更け行く程に、空すみわたり月影波に隨へるを見るにつけても、我が身ひとりは沈まざりけりと思ひ亂れつゝ、人も渚を物心ぽそくて歩み行くに、浪の上遥に琵琶の調さまざまに聞えて、かき合せなどの有樣世に類ひなき程なり。これを聞くに怪しき心抑へがたし。あま人武夫より外に、誰かは又なさけあるべきとおぼえければ聲をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに「我はこれあきびとの妻なり。昔よはひ十三にて、琵琶を習ひ得だる事世にすぐれたりき。みかどの御前にて一度調べしに、百の御ひきいでものを賜ひき。又みめかたちありがたく珍しき程なりしかば、見る人聞く人さながら思を懸け心を盡せりき。しかれども春過ぎ秋暮れて、みめかたちありしにもあらす衰へにしかば、世に經る力失せはて、せむかたなくなりにしより、商人に契を結びてこの國の民となれりき。商人情なければ別を惜む事いとあさし。われをねもごろにせねば出でゝいぬる後立ち歸るほど久し。歸る程おそければ、みつから待たすしもあらず。かゝるまゝには、唯むなしき舩を守りつゝ、秋の月のすさまじきをのみ見る」といへり。白樂天、「我琵琶の聲を聞きて愁深し。又この語らひを聞くに、取り重ねたる心ちす。我も君も愁の心同じからすや。必すその愁の盡きせぬことを思ひ知るぺし。我いにし年の秋より、つかさのがれ都をはなれ【わかれイ】てこの所に沈めり。又病の筵に臥して立ち居る事たやすからす。いと物心細き折に、浪風より外に立ちまじる人もなきすみかには、蘆の上葉を渡る嵐、をちこち人の舟よぱふ音のみ聞えて、いまだ樂の聲を聞かす。今宵の君が琵琶のしらぺを聞くに、ほとほと天の樂を聞かむが如し」。これを聞く人皆涙を流せり。その中にも、白樂天一人袂くちぬと見えけり。

 「いにしへにあへりしことを盡さすば袖になみだのかゝらましやは」。この人は、世の中の人の心の皆濁れるを憂しとや思ひけむ、一人すまして常は都に跡をなむ留めざりける。

国文大観