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2017-05-10

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 大工や仕事師の江戸言葉は、よくタンカが切れて、歯ぎれのいいかわりに──むしろその必要からであろうが──荒っぽいごとも、気早なこともまた、この上なしである。昨今の東京弁は、芸妓が代表しているか、女学生が代表しているか、ないしポット出の看護婦が、代表しているかわからないが、

「アラ、とても随分だわよ」

というような言葉が、横行しているものと思えば、間違いはない。旧幕時代の武士階級は、それぞれお国のなまりはあっても、大体において、「ござる」言葉で統一されていた。

 純粋の江戸ッ子にいたっては、木場の旦那でも、蔵前の旦那でも、やはり武蔵野に吹く、空ッ風のような、荒い言葉を用いた点では、大工か仕事師と、大差はなかった。虫も殺さぬような顔をした芸妓なども、「あいつ」とか、「こいつ」とか、平気でいっていたそうである。

 その荒っぽい江戸弁も、武士の前では、特別にていねいにするならいであった。武士に「無礼者ッ」と認められることは、オオゴトであったからである。.

 平生ていねいな言葉を使いつけない職人などが、旗本の座敷へ通されて、急によそいきの言葉を、しぼり出す時のおかしみを、今でも落語家が話して聞かせる。しかしこれは、客の錯覚を利用した筋であって、実際上では、どんなにそそっかしい職人でも、武士の前へ出て、

「そうでございます」

「こうでございます」

くらいの程度に、言葉をつつしむたしなみはあった。

 ただここに誰の前へ出ても、決して言葉を改めない──或いは改め得ない階級が、一つあった。

それは深川の、漁師言葉というものであった。日本全国どこへ行っても、漁師の言葉が、放胆蕪雑《ほうたんぶざつ》なのは一律である。なぜに漁師言葉が百姓言葉よりも荒々しいかというに、漁師は板子一枚に命を托し、荒い浪風の中で物をいいつけるせいでもあろうか、充分わからないが、江戸の漁師町たる深川の住民も、普通の江戸ッ子が、腰を抜かすほど、荒っぽい言葉を用いる特権をもっていた。

 永代橋界隈、黒江町界隈の漁師町が、-いつしか海と縁が遠くなり、昔の漁師の子孫が、多くは剥身屋《むきみや》にかわって後も、漁師言葉だけは、少しも変らずにつづいてきた。番町辺へ出入りする八百屋、魚屋、小間物屋などが、言葉丁寧に、腰も低くしたのに反し、ひとり深川の剥身売りだけは、大家の門番だろうが、用人だろうが、

「剥身買わねいか」

「負かるものか、腐った剥身だって、そんな値には買えねいぞ」

というようなぞんざいなー時には、ぞんざい以上なタンカをきって、人も怪しまず、自分も恐れぬ特権をもっていた。

 旧幕臣であった老人などは、今でも、

「あればかりは治外法権でした。聞いている方でも、別段腹が立たず、かえって小気味のよいタンカに聞き惚れて、しまいには、ふき出してしまうこともありました」

と思い出話をするほどだから、よほど乱暴な、物言いをしたものらしい。昔からいろいろの株があるうちで、これなどは利欲にかかわらない、面白い株である。

矢田插雲江戸から東京へ』七 中公文庫p.285-288

「平生ていねいな〜たしなみがあった」 田中章夫『東京ことば』p.50所引