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2011-03-14

塵芥上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載二) 塵芥(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載二) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 塵芥(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載二) - 国語史資料の連関 塵芥(上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』第二章 付載二) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント


    附載二 「塵芥解題

 塵芥は、内容體裁とも節用集に類似した辭書であつて、現に存するものは零卷二册(寫本)、鈴鹿義鯨氏の所藏である。此の書は、丈八寸九分幅七寸の袋綴の册子であつて、白茶色の表紙を附け、題簽は無いけれども、もとあつた痕跡があつて、其の處に、第一册には「塵芥」、第二册には

   塵芥 自阿部 下

と記してある。兩册とも、表紙右下に「東向 教圓」と墨書し、見返しの右下には「尚〓舍藏」の文字ある方朱印がある。本文は八行七段の黒格紙に書し、第一册は與部より天部に至る百一丁、第二册は阿部より寸部に至る八十七丁、何れも卷初に一枚の白紙があつて、其の裏面上端には、本文とは別の手跡で、片假名を以て、其の册所收の部名を記してある。兩册とも、本文の最初、即第一丁表面の右下には「東向坊」の文字ある小さい長方形の朱印があつて、其の上方に、第一册には、

 |自《リ》ち|部《ノ》一|至《ル》昌|天部《ノニ》 墨付百一|牧《 マこ》中卷也

第二册には

 |自《リ》阿|部《ノ》鱒|至《ル》二|須部《ノム》一 墨付入十八|牧下《 マも 》卷・~

と書入れてある。猶第一册には、本文最後の丁の終にも「三卷之内」「墨付百壹枚」と記してある。此に由つて觀れば、もと全部三册であつたのが、上卷だけ缺けたもの》やうに見えるけれども、此等の書入は、表紙上の文字と共に、本文とは筆跡の違つたものである上(寫眞版第二十三參照)、第一册の後の表紙の内面に貼附した古い紙(此は、多分、もとの表紙か、又は、其の見返しの一部分であらう)に

 四卷 一冊不足

  三冊之内  東谷教圓|〓之《(本カ)》内とあり、又、第二册の終にある白紙に貼つた古い紙(これも同前)に

  右三卷之内上醍醐寺東谷住養眞屬

  四卷ノ内壹册者不足也今ハ三册アリ

とあるから、元來は四册であつたのを、上醍醐寺東谷の住、教圓が傳領した時は、既に一册缺けて三册となつて居たが、其の後、更に一册失はれて二册となつたのであらう。又、第二册の丁數は現在八十七丁であつて、其の卷頭に「墨付八十八牧」とあるに合はないのは、最後の一丁が脱落したのであらう。此の書、書寫の年代については、何等の記載も無いが、多分足利の末か徳川の初のものであらう。

 此の書は、節用集と同じく、先、いろはに分ち、其の内を更に分類したものであつて、本文は全部楷書で、之に片假名をつけてある(假名には異體のものもあり、筆法古風である)。部名は萬葉假名の下に「部」の字をつけて之をあらはし、行の最上にあつて、一行を占めて居る。「ゐ」「お」「え」の三部は、本文のみならす部名さへも無い。門名は、必「何門」と標し、之に一行を與へ、門と門との間には、多くは一行を剩してある。門は

 天地 時節 人倫 氣形 支體 態藝付虚押  草木 食服

 器財 彩色 數量

の十一に分れ、其の順序は何れの部に於ても全く同一であつて、少しも亂れた所は無い。註は少いが、處々委しいのがある。

 此の書は、其の體裁節用集に全く同じことであるから、節用集の一本ではあるまいかとの疑も起るのであるが、「え」部を立てすして之を「ゑ」部に併せ、且「態藝付虚押」を門と立てた如きは、節用集の何れの本にも例を見ない所であり、門の順序に於ても、節用集中之に一致するものは一つも無い。しかのみならす、其の所收の語に於て節用集と異る所が少くないから、節用集の一異本とは認め難い。

 此の書の題目は本文中には見えず、たゞ、表紙題簽のあつた跡に「塵芥」と墨書したもののみである。これは本文とは別筆であつて、多分、三冊あった頃に書いたものであらうが、若し、此の三册中に原本の第一册があつて、其の卷頭にあつた名を各册の表紙に書いたのであるならば、最確實であるが、若し、さうでなくして、第一册が既に失はれて、第二册以下の三冊のみ存して居たものとすれば、第二冊も、現存の二册と同じく、卷頭に題目が無かつたであらうから、何によつて此の表題を書いたかは一考すべき問題であつて、塵芥といふ名が本來のものであ乃か如何との疑問も自ら起つて來るのである。併しながら、此の疑問は今解決するに由なく、此の題目も、さほど據なきものと云ふことも出來ないから、姑く之を此の書の名と認めて置く。若し、此の名が本來のものであるならば、此の書が節用集でないといふ事に對して一證を加へたものと見做す事が出來る。

 此の書、著述の年代は明でないが、「鷹師《タカシャウ》」及び「鼓騒」の註に尺素往來(一條兼良作)の名が見え、又「敷島」の註に「愚謂」云々の語があつて直接又は間接に下學集(文安元年成)から出たものと認められ、殊に「生子《ムスコ》」の條に「古合秘注、後成恩寺御作」云々(後成恩寺は一條兼良であつて、文明十三年に薨じた人である)とあるから、室町中葉以後、多分、文明以後の作であらう。