2009-08-01
■ 佐藤義亮 【美文】
「美文」という言葉は、今の人たちは文学辞典でも引かなければわかるまいが、『帝国文学』によって大町桂月、武島羽衣、塩井雨江の三青年詩人が、在来の雅語古文にならいながらも、一種清新の内容と声調とをもって、散文詩的の観あるものを盛んに書いた。それが美文と呼ばれて、若い人の間に非常に喜ばれたのである。三氏の詩も加えて美文集『花紅葉』は、二十九年十二月の刊行だが、明治の文芸書のうちで、最も売れたものの一つと言われている。
この書の及ぽした影響は大きく、文学雑誌は、みな美文欄を置いて青年の習作を掲げたし、美文書の刊行も購しく、あの頃の書籍組合の目録を見ると、まさに美文書氾濫の観がある。新声社から出した『春風秋声』、『翠嶺白雲』、『紅葉舟』等々の集も、その内容はほとんど美文集であって、いずれも相当に読まれたものだが、しかし、新声社の本格的美文書の出版は、三十二年の秋に出た『白露集』である。これは『花紅葉』の後を継ぐものとして頗る好評だったのである。著者は久保天随、戸沢姑射、浅野馮虚の三人で、『花紅葉』と同じく大学を出たばかりの新人である。
美文は『帝国文学』から発生した関係か、どうしても大学派専売の観があって、新声社で出した、泉鏡花、小栗風葉、田山花袋三氏の『花吹雪』などは評判にならなかった。尤も著者はいずれも小説家で、いわゆる美文家ではないし、小説の一節に紀行文を交えた程度の内容だったから、問題にはたらなかったのかも知れないが、その後に新声社から出た高須梅溪氏の『暮雲』(三十四年十月)はよく読まれた。詩のようにきれいな文章で自然を叙しているなかに、青春の情熱が沸きたぎっているところが、若い読者の大きな魅力であったろう。