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2009-01-02

山田孝雄『日本文法學概論』第二章「文法學の研究の對象と文法學の部門」 [[山田孝雄『日本文法學概論』]]第二章「[[文法學]]の研究の對象と文法學の部門」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - [[山田孝雄『日本文法學概論』]]第二章「[[文法學]]の研究の對象と文法學の部門」 - 国語史資料の連関 [[山田孝雄『日本文法學概論』]]第二章「[[文法學]]の研究の對象と文法學の部門」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 文法學の研究の直接の對象は言語にあり。こは極めて明白なるが如くにして、しかも往々輕視せられ易し。これを輕視する時は往々文法學をして思想の研究の如きさまを呈せしめ或は一種の論理學の如く或は一種の哲學の如くならしむる弊を生ず。既にもいへる如く、人の言語を用ゐる目的は思想をあらはすにあるは勿論なるが、思想を研究の直接對象とせば、これ即ち思想の學問にして言語學問にあらざるを如何にせむ。この故に文法學は必ず言語を以て直接の研究材料とし、これを通じてはじめて思想なり聲音なりに觸るゝこともあるぺきなり。この故に思想上二に分解せらるべきものにても言語上一ならば、そは一として取扱ふべく、思想上にては一なりとも言語上にて二以上に分たるゝものならば、そは文法上二以上のものとして取扱ふべきものなりとす。くれぐれも言語といふ現象を直接の研究對象とすべきことを常に念頭におくを要す。

 次に更に一歩を進めて考ふべきことは文法研究の直接の對象は言語にありといふ、その研究の基礎とすべきは言語の如何なる部分なるかといふことなり。これにつきては普通には單語を以て研究の基礎とすといはるゝがしかも近時は往往文法研究の唯一の具體的單位は文なりと主張せるものありて、これらの論者は世に語といふものは後に文より抽出したるものなりと説くなり。この説は頗る勢力あるやうになれりと見ゆ。この二樣の見解はいづれを正しとすべきか。先づこれを決せざるべからざるなり。今これを論ぜむに、たとへばこゝに「犬」といふ語「川」といふ語ありとせよ。これは通常何人も一の語なりといふに躊躇せざる筈のものなり。然るに、こゝに思ひもよらぬ所に突然犬が目前に突進し來りたりとせば、大抵の人は「犬々」と叫ぶなるべし。「犬」といふ語は一の語たるに相違なけれどこの場合に於いてはたゞの語としてあげたるにあらずして、ある思想を發表する爲に叫びたるものたるは明かなり。而してかゝる場合に叫びたるその「犬」といふ語は一の文たりといふべきなり。或は又盲人が知らずして川に臨み將に陷らむとするを見たる者が突嗟に警告を與へむが爲に「川々」と叫ぶが如きも亦然り。かくの如く同じ「犬」「川」といふ語にしてこれを語なりといふべき場合と文なりと見るべき場合とあるを知る。然らば、この差別は何によりて起るものなるかといふに實にそれらを思想の發表に用ゐる材料として見るか、思想の發表その事として取扱ふかによる區別なるは明かなり。即ち語といふは思想の發表の材料として見ての名目にして、文といふは思想の發表その事としての名目なり。この事を更に語を換へて見れば、思想の發表その事と、その發表に用ゐらるゝ材料との關係を示すものといふべし。即ちこゝに材料なくば、依りて以て思想の發表といふ事を行ひうべくもあらざるものなると同時に、そのこれを使用するといふことなくば、材料といふ觀念は生ぜざるなり。即ちこれは實は同一物をば、その見地の差異よりして二樣に見たるに止まれるものなり。即ち一方は分解的の見地よりして材料として見たるもの、一方は總合的の見地よりして思想の發表として見たるものなりとす。かくの如くなれば、文としての場合に於いてはその材料たる語の性質個數などいふことは當面の問題となるべきものにあらずして、それが文と認めらるるか否かは、人間の思想の發表がその裏面に目的として存するか否かといふことによりて決定せらる。即ち同じく

  犬 川

といふ語が、たゞ「犬」「川」といふ觀念をあらはすものに見られてあるか若くは之を以てある思想をあらはす目的の爲に用ゐられてあるかによりて一の語とも見られ一の文とも見らる。かく文と見らるゝものには必ず内面に思想の複雜なる作用ありてそれが之を動したる結果なるべきはいふをまたず。されば、たゞ

  犬々 川々

といふ時も

  犬來れり。  この犬はかあいらし。

  こゝに川あり。この川は見事なり。

などといふ時もいづれも一の文たりといふを得べし。然るに、一旦こゝにその思想の統合を解きてその材料たるものに注意を向くる時は

  犬 川

の如きは各一の語なりと見られ

  この犬はかあいらし

の如きは數個の語よりなるものと見らるゝに至る。即ち吾人がそれらを一の語なりと認むるはそれをば思想發表の材料として分解的靜止的に、解剖學的に見たる爲にして、この場合には、その語を以て或る觀念或る概念をあらはすものとして取扱ふものなりとす。語といふ概念と文といふ概念とはかくの如き差別より生じたるものなり。然るに、世には或は、語と文との間に幾つもの段階ありて劃然と區別をなし得ざるものゝ如くにいへるものあり。これは蓋し單語より漸次に發達して文となれりといふことか、若くは文より漸次に分解して單語に到達せりといふことかの二樣のいづれかの見解によれるものなるべきが、これらは言語文章歴史的に發達し來れりといふことを惡しく心得て、語と文を發達より生じたる區別なりと考へたるものなるべきか。もとより歴史的に見れば、文と語との兩概念を區別せざりし時代はありしならむ。されど、それとてもこの兩概念をその時代に區別することを知らざりきといふに止まりて、この區別は事實上必ず存したりしことは明かなり。然れども、今若し、前述の如き語と文との差別は段階的の區別によるものなりといふことを固執するものあらむか。これらの論者に第一に問ふべきは單語たる「犬」と一の文たる「犬」との間に如何なる段階ありて、語より文にうつり行き、若くは文より語にうつり行きたるかといふ事なり。かく問はば、誰人も決して滿足に答へ得べからざる筈なり。即ち上の説の如きは語と文との根本的精神に到達せぬより生じたる迷誤なりといはざるべからず。語と文との相違は決して發展的の段階によりて生じたる差別にあらずして觀察點の差より生じたる區別たるなり。即ちこれは言語といふ一物の表裏兩面にすぎざるものにして、人間の言語の初發の時より、いつもこの二方面の觀念は與へらるべき性質を有したりしは疑ふべからず。表と裏とが相待的概念として同時に考へらるべきものにして表より漸次に發達して裏を生じ、若くは裏より發展して表を生じたりといふべからぬが如く、語と文との問に發展的の段階などの存すべきものにあらざるなり。

 以上に述べたる語と文との關係はやがて文法學に二の大なる部門を分つべき原因をなすなり。上にもいへる如く人間が言語を用ゐる目的は思想をあらはすにあるは勿論なるが、その思想を發表する材料として語を見たる場合とその材料たる語を用ゐて目的たる思想をあらはす方法を見たる場合との二の區別あるべきなり。即ち一方は分析を主としたる研究にして一方は總合を主とした為研究なり。抑も一切の學問に通じて研究法に分析的研究と總合的研究との二大別あり。分析的研究の主とする所は對象の比較にあり。比較とは多くの物の間に存する一致及び差異を確定する所以なり。總合的研究の主とする所は關係にあり。關係とは多くの物の相依り相保つ状態なり。分析的研究に於いてはその對象の本性を發揮し得べし。然れども之を以て研究の目的達し了れりとはいふべからず。如何なる對象といふとも分析のみにては未だそれらの關係を明瞭に認識し得ざるなり。こゝに於いて分析の後には總合來らざるべからず。分析のみありて總合なき時はその研究散漫にして之を統一運用する所以を知らざるなり。しかも分析なくしては眞の總合は起らざるなり。總合の前には必ず分析なかるべからず、分析の後には必ず總合なかるべからず。二者相待ちてはじめて研究完しといふべし。文法學にありてはその分析的研究を語の論といひ、その總合的研究を句の論といふ。しかしてその語の論にも句の論にもその内部に於いて亦分析的總合的の二方法相待ちて存すべきものなりとす。しかるに今語の論を分析的研究を主とするものといひ、句の論を總合的研究を主とするものといへるは、その研究の根本的態度よりいふものなりとす。

 語をば思想をあらはす材料として見たる立脚地よりして語そのものをば研究するを語論の態度とす。これは思想をあらはす方法といふことを第二の問題として暫く考へずしてこれを個々の語に切り離して考ふる事を主としてさせるなり。かく語個々につきて研究することが語論の主義なれば、これは分析的研究たること明かなり。されど語の研究の内部にも亦分析的方面と總合的方面とあり。即ち先づそれら個々の比較をなして、その差異又は一致の點を見て分類を施しなどして本性の研究をすることを基礎的研究とすべきものなるが、それより進んで、更にそれらの語の有する作用即ち如何なることに用ゐらるべき性質を有するかをも研究せざるべからず。この本性の研究は分析的にして作用の研究は總合的なりとす。されど大局より見て語論は分析的研究たるものなりとす。

 語論にて研究せられたる語を材料として如何に思想を發表するかの見地より研究するを句論の態度とす。これは語その者の性質用法といふことは既定の事實として、それより一歩進んで人間の思想と語との交渉を研究するものにして大局より見て總合的の研究なりとす。されど、それにもなほ、その思想をあらはす方法の言語的の單位即ち句といみものは如何なるものなるかといふ基礎的の研究を施して、その句といふものゝ本性を明かにする分析的の態度をとる方面と、その句が如何樣に用ゐられて思想をあらはすかを研究する總合的の態度をとる方面との二方面なかるべからざるなり。而してこの最後の總合的研究に至りて文法學の最終の地位に到達したるものとす。