国語史資料の連関

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2007-10-19

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宮武外骨明治奇聞』による

的字の流行 一日某活版所を訪ふ。雑談の末、主人曰く、頃ろ文章界に於て的字の流行甚く、一語の裡、一行の間、二三の的字あらざるなく、其活字も他の活字の一倍を備るも猶ほ足らざるを愁ふ。僕等昔時は弓矢の的か鉄炮の的より外に知らざりし字の、斯く迄に文章界に雄飛せんとは驚く可し。此有様にて推す時は遠からずして弓矢の射の字、鉄炮の玉の字も、亦一倍の活字を要するに到らん歟。察するに君も亦的々党の一人ならん。敢て問ふ、的字流行以前は、奈何なる文字を以て此的字に代用せし歟。僕数年の間此活版業を営むも、未だ的字の外に一倍の活字を要せし物あるを知らず、ト。成る程小生も常に狂戯的散文に的字を用る事多く、主人が的々党の一人と為せしは或は的中せしも知る可からず。然れ共此の比較的数字の打算的難問に答ふる能はず、自愧的、自嘲的、唖聾的、に辞し去る。

宮武外骨著作集第壱巻 p.232

松村明(1986)『日本語の世界日本語の展開』p318-9

河出文庫isbn:4309473164では、「唖聾的」を「(中略)」とする。

的の字の流行

支那の俗調文にならって、熟語に的を加え、文学的、野蛮的、婦女的など書くに至ったのは、明治十年後の哲学者が、西洋訳語に積極的、傍系的、抽象的など使ったのに基づくのであるが、これが一般に流行したのは明治二十二年頃であった。これにつき同年十一月美濃の大垣で発行した『花の友』という雑誌に、左の一記事がある。

○的字の流行 一日[ある日]某活版所を訪《おとず》ろう。雑談の末、主人いわく、このごろ文章界において的字の流行はなはだしく、一語の内、一行の問、二、三の的字あらざるなく、その活字も他の活字の一倍を傭うるもなお足らざるを愁《うれ》う。僕など昔時は弓矢の的《まと》か鉄砲の的《まと》よりほかに知らざりし字の、かくまでに文章界に雄飛せんとは驚くべし。このありさまにて推《お》す時は遠からずして弓矢の射の字、鉄砲の玉の字も、また一倍の活字を要するに到らんか。察するに君もまた的々党の一人ならん。あえて問う、的字流行以前は、いかなる文字をもつてこの的字に代用せしか。僕、数年の間この活版業を営むも、いまだ的字のほかに一倍の活字を要せし物あるを知らず。トなるほど小生も常に猛威的散文に的字を用いること多く、主人が的々党の一人となせしは、あるいは的中せしも知るべからず。しかれどもこの比較的数字の打算的難問に答うるあたわず。自愧《じかい》的、自嘲的、(中略)に辞し去る。

この時には流行的でムヤミに「的」の字を用いたが、その後は語訳の際、何々式、何々調、何々上など書くよりは「的」の方が便宜であり、イヤ味がなく、また学者らしいとされて、流行的でなく恒久的に使用されることになったが、ひとり変哲人をもって有名な大槻如電翁は、いかな文章にも一切「的」字を使わないことにしている。その理由は泥古的でなく、英語の「テイク」という語を発音の類似によって「的」の字を書くことにしたのであるという起源がお気に入らぬからであるそうな。