国語史資料の連関

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2007-03-12

有坂秀世「隋代の支那方言」(部分) 有坂秀世「隋代の支那方言」(部分) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 有坂秀世「隋代の支那方言」(部分) - 国語史資料の連関 有坂秀世「隋代の支那方言」(部分) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 隋初に於ける支那方言状態は、顔氏家訓音辞篇の左の記述によって大体知ることが出来る。「南方水土和柔、其音清擧而切詣。失在浮淺、其辭多鄙俗。北方山川深厚、其音沈濁而鈋鈍。得其質直、其辭多古語。然冠冕君子南方爲優、閭里小人北方爲愈。易服而與之談、南方士庶數言可辯、隔垣而聽其語、北方朝野終日難分。而南染呉越、北雜夷虜、皆有深弊、不可具論。」之を要するに、当時、南方では士大夫階級の言語と庶民階級の言語の間には截然たる区別が有り、たとひ士人が庶人の服を着てゐたとしても、これと二三言も談る間には、すぐその人の本来の素性が判ってしまふ位であった(辯は辨と同じ)。之に反して、北方では階級の上下による言語の差異が少かった。故にその人を見、その服装を見てゐる場合ならば、勿論すぐにその人の身分が分るけれども、垣を隔てて他人の談話を聴くだけでは、終日聴いてゐても、その話手が士人であるか庶人であるか区別がつき難い。而して、顔之推の考へに據れば、士大夫階級の言語の中では南方のものが優れて居るし、庶民階級の言語の中では北方のものが優れて居る。故に、結局、諸方言の中では最も高雅なものは南方の士大夫階級の言語であり之に亜ぐものは北方の言語(階級による差異は少ない)であり、最も卑俚なものは南方の庶民階級の言語であった、といふことになる。

 これは、さもあるべきことである。何となれば、江南は南蛮鴃舌の地であって、支那語が一般に使用されるやうになってから後も、久しく政治・文化の全国的中心から遠ざかってゐたから、その地に土着の人の言語が甚だしい訛言であったことは想像するに難くない。然るに、晋室が夷狄に逐はれて南遷するに及んでは、新に北方から支配階級の人々が移住して来た。それらの人々の使用してゐた言語は、言ふまでも無く、北方の標準語であって、南朝の末期に至るまでも、彼等が田舎言葉として卑しんでゐた土着人の言語に同化しなかったことは、大いに有り得べきことである。

 之に対して、北方に於ては、異民族の侵入や社会状態の激動によって、言語の上にもかなり急激な変化を来したことは有り得べきであるけれども、新に侵入した異民族の人々の学んだ支那語は言ふまでもなく北方の支那語であり、彼等の君長に仕へて官吏の地位に在った漢人の言語も、被支配階級たる下層漢人の言語も、いづれも等しく本来の北方支那語であったから、顔之推時代の北支那に於て、階級による言語の差異が、南支那に於ける程甚だしくなかったことは、当然のことと思はれる。

 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/16.pdf