国語史資料の連関

国語史グループにあったブログ

2005-04-01

[]義門活語余論』「諸国の方言によりて……」 10:37 義門『活語余論』「諸国の方言によりて……」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 義門『活語余論』「諸国の方言によりて……」 - 国語史資料の連関 義門『活語余論』「諸国の方言によりて……」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

【二八】 諸国の方言によりて 古言 雅語 の領會せらるゝあまたある事

 じ ぢ のけぢめ、かう くわうか のしなの如き、今もわかれてある處のあるは、古雅の傳はれる也。是を思ひても近き世人の霊語通とやらんにいへりとのさだ、古くは仙源抄などのみだりごとなどに惑ひて、「仮名に格なし」とやうにいひ思ふは宜からざること知るべし。くに%\の方言のあやしげなるに、はたかへりて此筋の正しきもとを訪ね得べき事もある物也。されば國々行廻り、或は都などにて相あひて、處々の物言ひを聞くに付て、物學ぴの助となる事も少からぬもの也。戀すてふとやうに云ては古くはちふといへり。其ちはといの約りと様にとかざれば、このわたりの初學はえ意得ねど、ちふとまではつね%\いひなれをる國處も少からず。聊もと云意ばへにて、ゆめしらずと云事此わたりには云へど、ゆめにとにもじそふればぬるが中にみる夢とのみ聞えて、聊少の事とはならず。さてそれに又も文じ一そへて、ゆめにもといへば、又いはゆる 聊も 少も といふ意になる。むかしぶみにては、ゆめにとにもじのみそへたるも聊少の意、亦 サラ/\ カツテ の意につかへるもあるを、今の世のつねごとに、すなはちしかいひをる國も有べし。但し和訓栞大綱()に若狭方言とて出せるには、此若狭にてふつにいへらぬ言の、たれも意得がてにのみする詞あるはいかなるにかあらん。是よりみれば彼大綱に出せる諸國の方言何處にも事のたがへるやあらん。かにかくに諸のくに人に親う交り聞てこそ。


義門「活語余論」巻2)

[]義門活語余論』「じぢのけぢめ」 11:13 義門『活語余論』「じぢのけぢめ」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 義門『活語余論』「じぢのけぢめ」 - 国語史資料の連関 義門『活語余論』「じぢのけぢめ」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

         じ ぢ のけぢめ

「冨士山は必ふじの山、藤花はいつもふぢのはなと書くこと、女わらはべにてもこれを互に混ふる事はをさ/\なきは、つねのロ呼おのづからに誰も/\わかれてあるが、わが土佐のならはしなるを、京に出て三とそいつとせすまひゐし女などのかへり来てはことさらめきてこれをわからぬやうに云ふ」と、土佐人吉田直堅と云へる士の、かの國の京屋敷と云へるにまうのぼりゐるに、部屋にて大平本居翁、保己一塙ノ拾校、正輔大堀氏、などゝともにあひあひけるときに、ものがたりしをおもひ出るにをかしきことなり。考るに彼るにつらなるとのにつきて出るとにて、重くウオと聞ゆると軽くオと聞ゆるとのおもむきよりも、このじ ぢ の別はわきやすきことなり。だとざとはいと/\明かに相分れて聞えもしいはれもするなり。舌用のかゝり齒用のあづかるところを意えて、だの音に彙へてといひ、ざに例してじと呼び試るべし。ふじの山とふぢい花と じ ぢ 同じからず。むかしは人みなのロ呼よくわかれてぞ有けん。ずづ の別なずらへて考ふべし。まづ さしすせそ は 舌のあぎをばうつことかすかにて、た ち つ て と はあたるやうふかし。されば濁りてよぶ時もざぜぞと だでど とのわかるゝやうに、じずとぢづ ともわかるべきことわりなり。さることわりのまゝに、いにしへはたゞしくよべりければこそ、ふるき書どもには,かの書とこの書と、其書しるせる仮名文字のつかひざまの、さだかに分れてあるにてはあるべけれ。但しまぎらはしくなりそめしはなほいとふるくよりなめれど〔假名遣千代の古道に云へる如し〕、心を用ゐてはたゞしくかけりし人の多かりけんは、さすがに口呼のまぎれものち/\の世のやうにはあらざりしからなるべくぞ思ひやらるゝ。

 さてかう書をるをりしも有人来て云、「日向人に聞聞ばかの國にては、治助といへる男と次助といへるとが物云かはすに、互によびわけ聞わくこと珍しからず。又筑前にても十蔵といふ人と重蔵といふ人との呼あふ音聲かたみに相わかれ、かたへよりきゝをる人も聞まがふる事をさ/\なかめるよし聞ゐる也」と云り。義門こゝに思ふに、さは 藤藤 富士 もわかれてあるらん。たゞしこは又ぎゝの又ぎゝなれば尚よく聞べし。土佐のは其國人直堅のいへるをたゞに聞しになん。おもふにこれらはむかしよくわかれてありし、大かたのおのづからなりし音聲のなごりなるべしと乞 かへす/\も想像せられしか。其後又肥前人に聞くに「その國もとより 治右衛門 何次郎 の 治 次 人皆よく云わく。富士と藤との紛れぬ事固より也」と云へり。

 土佐人に聞し上の件は文政の初計の事なるを、廿五六年計経て、天保十四年春(註)讃岐ノ國に渡りて圓龜にしてきくに、「かの土佐のばかりにこそはわかりたらね、藤屋といふをふじやと書やうの事はこゝもとにてもおのづから誰も物せず」とぞ。

 さて又鹽の事、豐前小倉人の語りしにやゝかよへる事あり。市にひさぎありく聲の「しぼや/\」と聞ゆるをかし と聞つきて、わざと今一聲とことさらにいはせてきけば、しをなれどおのづからには尚しぼといふとおぼしきは小倉のしほにやゝ似ておもしろし。藤をふじとかゝぬはよろしきほどの人もむげのさと人も大かたかはらざめり。又しはく七嶋とてあり、鹽飽とかく。それをロにいふは、しは しわ いと聢にはわからざれど,ものにかくに、しわくとはさと人とてもかくともがらの、をさくなかめる、これもをかし。



義門『活語余論』巻2

この条の後半「さてかう書をるをりしも」以下、『義門研究資料集成 下』に無し。そのかわりに、

さてそのおのづからによくわかれてありしむかしのまゝのなごりを土佐の人おほかたのものいひのうへにて想像すべきは亦いとをかしうまことにたふとし
とあり。



方言座談会」と呼んだ論文あり。