国語史資料の連関

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2005-03-01

[]独逸語の始め(明治事物起原 第七学術) 独逸語の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 独逸語の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 独逸語の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 加藤弘之は、天保七年但馬出石に生まれ、坪井為春について蘭学を習ひ、幕府の蕃書調所時代に、西周とともに、そこの教師となれり。万延元年(年二十五歳) の頃より、独逸は、西洋各国中にても、学術のもつとも優れし国なるに着目して、少しく独逸学を始めしなりき。当時、独逸学を学ぶ者とては、一人もなく、ただ市川斎宮(後兼恭)と、二人のみなりき。普路西国が、本邦と条約締結のために、特命全権公使をよこせしとき、国王より、幕府に、「電信器械を贈呈したく思ふにつき、右の伝習を受けるものを、公使の旅館までよこしてもらひたし」といひよこせり。開成所の加藤は、同僚市川とともに、その旅館に出向き、独語の伝習を受けき。これより先、加藤は、独逸語を修めたしと思ひをりしところなりしかば、いまこのことあるを幸ひとし、愈蘭語より独逸語に転向し、これよりは、市川やその他二、三の同志者とともに、発奮して独語の研究を始む。もちろん師あるにあらず、蘭文と独文の対訳字書を、唯一の力とし、刻苦してやうやく学習せしことなるが、これが今日、わが邦に、独逸学の行はるる原始とはなれり。