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2003-02-27

[]明治初期の英和辞書類(明治事物起原 第七学術)2 明治初期の英和辞書類(明治事物起原 第七学術)2 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 明治初期の英和辞書類(明治事物起原 第七学術)2 - 国語史資料の連関 明治初期の英和辞書類(明治事物起原 第七学術)2 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 以上明治以前なり。これより明治以後のことを述べん。明治維新後は、英和辞書の出でし数も少なからず、俗称薩摩辞書が、開成所本の模造、蔵田氏版の『[浅解英和辞林』が平文本の剽窃に過ぎざるごとき、粗製本もあり。

 (一)『薩摩辞書』 俗称『薩摩辞書』といへる『和訳辞書』は、薩藩二、三の学生が洋行費を作らんとて、編纂出版せるものにて、その動機は良からざるも廉価に供給して世の英学者に洪益を与へしことは至大なり。その発行始末は『実業百傑伝』高橋新吉の条下に見える事実と、著者が、前田正名氏に、親しく聴ける話とをあはせてここにつくさん。『薩摩辞書』は、明治二年正月の完成にて、その序文に、編輯訳著者は、堀、堀越氏および外国宣教師等、発行者は、たんに日本薩摩学生と署するだけにて、くはしい署名はなし。堀(達之助)、堀越(亀之助)は、開成所辞書編纂者なれど、その名を出せしものらしく、外国宣教師とあるは、当時長崎に在留せるフエルベツキを指せしなり。幕府を恐れ、秘密に出版せしものなれば、特に詳記を避けしなり。

千八百六十九年新鐫

和訳辞書

明治二歳己巳正月

 薩藩の洋学校開成所の教師補助に、高橋新吉(後の日本勧業銀行?総裁)といふ青年あり。長崎に留学して、何礼之の家塾に学びをりしが、これより先、元治元年に、薩藩より、英国に留学を命ぜられて、あちらにゐる知友より、通信を得るごとに、洋行したき希望堪へがたし。長崎の人にて、蔡慎吾?といふ書生あり。高橋は、この人と交情親密なれば、ある日、自費洋行のことを談じけりしが、到底その資金を得るの道なく、決行のむつかしきにつけ、両人フト思ひ付けるは、辞書発行のことなりし。

 これより先、幕府開成所版の『英和対訳袖珍辞書』あり。その編著は稀覯、かつ一部十二、三両の高価なれば、人々これを貴重書として秘蔵し、あへて他人に示さざるほどなりし。蔡氏窃かに思ふに、もしこの書を増刊し、かつ廉価に発売せば、一つは後学を益し、一つは洋行資を得るに易からんと。高橋おほいにこれに賛成し、協力もつてこれを成さんことを誓ひ、さらに、これを宣教師ドクトルフエルベツキ?に語りしところ、フエ氏もまたおほいにこれを賛成し、十分助力せんことを約束す。だが、洋行や洋書刊行などは、まだ禁制の時代なれば、幕府を憚り、薩藩士中、ことをともにせんとする者もなかりし。で、高橋等だけにて、一意秘密を主とし、毎夜七、八時より、十二時に至るまで、フエ氏の寓に赴きて執筆し、相与にことに従へり。フエ氏は、ただその編纂上に、助力を与へしのみならず、その印刷をも上海の活版所に紹介し、刷成後は、代金引き替へにて、成本の授受手続きを簡易にするなど、その厚情至れりつくせり。されば、高橋等、筆成るの後、フエ氏に対して、若干金を贈りて、その労に報いんとせしが、フエ氏固辞して受け取らざるにぞ、やむを得ず、さらに製本十二部をもつて、これに報いしといふ。学界特記すべき美談なり。

 初め高橋等のこの事業を企つるや、同藩医前田献吉また来りてその同盟に加はれり。後蔡氏、ことありて同盟を脱したれば、すなはち前田の請を容れ、その弟正名を同盟に加へ、精励刻苦、明治元辰年、戦争前にやうやく脱稿せり。

 当時本邦に、活版印刷の業いまだ起こらず、これを印刷するによしなかりし。やがて、フエ氏の紹介を得、これを清国上海なる伝導印刷会社ガンブル商会に注文することとなれり。しかるに、同商会より、印刷費三分の一の、前納を請はれ、ここに再び蹉躓せり。しかるに、幸ひなるかな、前田が、薩藩の巨商浜田十兵衛の奇病を全治せしめて、壱千金を得、高橋これをもたらして上海に密航し、始めてガンブル商会と、印刷の締約が成立せり。高橋は、上海にあること一年、その間王政復古のことあり。つひに藩庁の召喚に接し、一旦帰崎して、警備に任じけるが、再び上海に航して、印刷を督責し、後前田正名これに代はり、明治二年やうやくその三百部を領し、いくばくもなくして、再び三百部の刷本、フエ氏の許に着せり。ときに、献吉は、官軍に従ひて函館にあり、正名また長崎にあらず、ただ高橋一人、代金を調達せざるを得ず、おほいに当惑のあまり、かねて知るところの、日田県知事松方助左衛門?(後の正義?)を訪ひて、窮状を訴ふ。助左、添書を授けて、長崎の富商松星氏に紹介し、始めて九百金を借りることを得て、やうやく三百部を領有することを得たり。

 以上は『百傑伝』所載の梗概なるが、この同盟者の一人、後の貴族院議員前田正名、かつてこのことにつき、著者に、まのあたり答ふるに、左のことをもつてせり。

 最初、薩藩にて、英船の襲撃を受けてより、おほいに啓発せられ、海外との交通は、到底避くべからざるものと、斎彬公始め要路の人々の思想は、おほいに豹変せり。次いで、松木、森、鮫島等の書生を、英国に留学せしめしが、そのとき、予は、ともに行きたくてたまらず、懇願したれども、その選に入ることあたはずして止めり。

 その後、あの辞書出版することになり、予は、名を弘安といひしが、予の兄の前田献吉、および後年銀行の方に出た高橋新吉、この三人が上海に往きて、印刷製本を完成することになりしなり。否、藩の金などは、一銭ももらはず、まつたくわが輩等の才覚にて、出版費を間に合はせしなり。上海に往きしは慶応四辰年の春なりしと思ふ。元来、予は、諸先輩の愛顧厚かりしため、従軍させて、空しく死なせるは不憫だとて、東北の戦争には出されないでしまへり。予は、この上海渡航のときほど、困苦したことはない。下宿費は豊かならず、言語は通ぜず、困苦を極めしことは忘れない。いま思ひ出せば、その活版所は、上海の某寺院にて、支那人使役し、その下の方にて、印刷してをり、最初は、五百部を印刷する予定なりしが、印刷所にて、わつか五百部にては、原価が格外に高くなるゆゑ、少なくも二千部は刷ること好からんと忠告す。この方は、その言に従ひ、二千部印刷を頼むことにせり。この活版所は、長崎の宣教師フエルベツキ氏の紹介なりし。

 さて、製本も成り、これを持ち帰れるが、まつたくこれを売り捌く道を知らず、当惑せり。幸ひに天下の形勢一新し、大久保、大隈諸氏、声望隆々なりければ、内五百部を、政府の買ひ上げを請ひ、官立学校等の備本となすことを得たり。しかうして、予はその金にて、洋行の望を達したり。もちろん洋行費としては、足らざりしも、外務省より、補助を仰ぐことにし、明治九年まで、あちらにをれり。兄献吉と高橋は、あとの千五百部を売りし代金にて行くことになり、予だけさきに行き、二人は後れて往けり。あとの千五百部はたちまち売りつくし、兄と高橋にて、再版せしはずなり。この辞書については、今日まで、質問せる者もなく、また世人の深く知らない事実なれば、くはしく話して置く。とあり。

 著者いふ、同じ薩摩辞書にて『大正増補和訳英辞林明治四年十月、薩藩?前田正穀、高橋良昭?、上海米国長老教会印刷所印行とあるものあり、新吉献吉両人の再版本とは、これならん。

 著者は、弘安が、最初の売上金を、自分だけの洋行費にしてしまひ、あとの両人が、困りしことありしやうの話を耳にしてをりたりしが、面と向かひて、これを問ひかね、ぼかしてしまひたりしを、いまに悔やみをる。

五代友厚?』二四九頁の一尺牘は、辞書売却に苦心したる当時の、事情を知るべき、よき傍証なり。

御壮栄奉賀候、扨此内より、上海表にて、英和対訳辞書上梓の儀、旧政府免許の上、高橋前田等尽力成就相成候処、段々右事件に付、子細有之、当人共、迷惑の件当来、此節、右対和書五百部持参、諸所へ相払の都合に御座候、兵庫県も、百部丈は取入、兵部省百五十部は取入相成候由、残を是非運上所等へ、少々にても御用相成候はば、別に仕合の由、無余儀訳合に付、可相成は少々にても御用相成候様、土肥氏へ御談御世話被下候儀は、相叶申間敷哉、又は、商法局等へも、少々は無くては不叶品とも奉v存候間、可v成数冊御世話相調候得ぼ、仕合の至、此節の書籍は、余程宜敷、「フルベツキ?」氏抔、尽力誠に見易く御座候、一冊拾弐両にて御座候由、右に就ては、段々事情有v之、何卒世話致され度、両人も極々切迫、心痛の事に御座候故、毎度余計の御煩はせ申上候得共、何とか救成度御座候故、当人共差出候に付、次第御聴取被v下、御工夫被v成度、乍2自由1書中を以、此段御願申上候、早々。

    明治三年二月二十日              (小松帯刀)

                                観瀾

    (五代友厚)松陰先生

(二)『英華字彙』 明治(二年)己巳、初秋官許上木、松荘館翻刻蔵板と、標記する『英華字彙』は、四六判三二二頁、和紙洋装の木版英和字典の一種なり。履軒柳沢信大序文に、「余曾テ、英漢倭対訳ノ字書ヲ編述セント欲シ、稿ヲ起シテ未ダ成ラズ、子達森川君、夙ク字彙一冊ヲ有ス、英士斯維爾士維廉士?ノ所著ナリ、頃、将ニ刊行シテ諸ヲ世ニ会セントシ、余ニ付テ謀ル、余其ノ所見ヲ符スルヲ喜ビ、慫慂賛成シ、敢テ自ラ揣ラズ、之ニ話ヲ加へ、且ツ一言ヲ弁シ、以テ其唱道ト為ス云々」とあり、森川子達?の発行、柳沢の訓点の事情をつくせり。その凡例によれば、本書は、英人スウエルスウエレンス?の著書『英華韻府歴階』中の、『英華字彙』の部だけを取りて、翻刻せしものなり。巻末に、東京柳原香芸堂?、川起屋松次郎発兌の印記あり。

 柳沢は、中村敬宇の同人社?の友なり。本書によりて、後段掲ぐるところの『英華和訳字典?』の訓点発行ある由来を知るを得たり。

日本柳沢信大校正訓点

英華字彙

清衡三畏鑒定

英斯維爾士維廉士?

松荘館翻刻蔵板

官許上木

明治己巳年初秋

 (三)『浅解英和辞林』 四六判、『浅解英和辞林』は、蔵田清右衛門(後年まで、浅草にありし、蔵田活版所の創立者)が、文部省にありし、片仮名活字 ――和蘭製と聞く――を借り出し、平文辞書の日本訳のローマ字綴りなるを、仮名に書き改めしものにて、平文氏より、版権侵害の故障を申し込まれしといふやうに聞いてゐると、蔵田の嗣子某氏の話なり。

明治四年辛未初冬

浅解

英和辞林

東京蔵田氏新鐫

明治壬申仲夏刊行

英和字典

西暦千八百七十二年

 (四)知新社『英和字典』 知新社字典は、四六判薄葉紙頁六百九十四頁の洋本仕立てなり。明治五壬中の夏の刊行、吉田賢輔序文によれば、「吾党の二三子、英人ニユツタル氏の字典を本とし、傍らウエヴストル氏の大字典に就き、務めて応用に適切なる語を訳出し、且つ、翻訳に従事するの人をして、捜字に使ふらしめん[ママ]が為め、英漢対訳の字典をも采用」せしものなり。大槻磐渓跋文にも「知新社」社中の編纂なるを知る。

 この時代の字典として、別にあやしむに足らざれども、洋装本にて、その序文は、左方とちめを頭にして、右方へ書き下し、本の小口を下方にして読むやうに入れ、跋文は、字典の順にていへば、Zの最終行になるべき行より書き起こし、上方に昇るの異観を見せり。

 (五)有馬学校『英和掌中字典』 三寸に四寸の掌中字典なり。明治六年秋九月、青木輔清の序にて見れば、学生用として、有馬氏の嘱により青木氏の編纂せしものなり。

 従四位有馬頼咸は明治五年某月、現石十分ノ一の家禄を頂戴しても、病弱のために、他の華族諸氏のごとく、洋行して学を修め、国家の進歩を助くることあたはざるを恐懼し、よりて右家禄の半ばを割きて小学校を設け、西洋教師を雇ひて、教育につくし、もつて君恩に報じたしと願ひ出で、許されて創建したるが、日本橋蠣殻町の有馬小学校なり。本字典がこの小学校より出版されたるを奇とし、小冊ながら、ここに留む。

紀元二千五百二十三年九月刊行

英和/掌中字典

     有馬私学校蔵版

 (六)金沢版『英和辞書

 (七)横浜版『英和字彙』 前者は、石川県金沢藩明治六年出版(渡辺修二郎氏通報)、後者は、同じく明治六年版、図入りなりといふ。ともに、いまだ一見せざれば、ただ書目だけを掲げおく。

 (八)開拓使『英和対訳辞書』 明治五年七月、荒井郁の序文あり、奥付に、壬中晩夏刊成る、小林新兵衛(嵩山房印)あり。開成所枕辞書と同型同大の和版、和紙本にて、頁数もまた似たるものなり。

 (九)日就社『英和字彙』 明治六年一月に、印刷成りし日就社版、『英和字彙』の緒言に、

「庚午始メテ稿ヲ起シ、共ニ対訳ニ勉ム、然レドモ、之ヲ印刷スルニ、許多ノ苦心ヲ為セリ、曾横浜ノ商糸屋平八、此事ヲ聞キ、抵当ノ有無ヲ問ハズ、首トシテ金若干ヲ出シ、以テ吾輩ノ創意ヲ助ク、因テ印刷ノ器械ヲ外国ヨリ購ヒ、訳成ルニ随テ之ヲ印刷シ、遂ニ今春ニ至リテ成功ヲ得タリ」

とあり、『読売新聞』の沿革、『新聞総覧』によれば、「明治三年子安峻柴田昌吉等の諸子相謀り、上海より活字及び活版器械等を買ひ、横浜元弁天町に、日就社を設立し、続いて『英和字彙』を刊行せり、本邦に於て、『英和字彙』を印刷したる始めなり、六年一月卒業し、間もなく(東京)芝琴平神社近くに移りて、出版印刷業に従ひ、同時に新聞発行の計画を為し、七年十一月、『読売新聞』第一号を発行せり」とあり。

 (一〇)『和訳辞書』(サツマ辞書と同名) 明治三年以来、新製活版といふものにて、『薩摩辞書』の翻刊を目論見、その活版が、なかなか完成されず、追々資金をつぎ込み、たうとう寂樵なる者に一切を委任し、大革新をなせるが、明治六年十一月、このとき新古出資総計、壱万四千参百四十円、社長平坂信八郎、職方棟梁天野勇次郎、出資者八、九人、久しくもみに揉めたるが、幸ひに辞書は完成せり。

 東京新製活版所天野芳次郎蔵版、改正増補和訳英辞書序……明治己巳の春、鹿児島学生開版の辞書を、わが発明の鉛字器械にて公世せんことを官に乞ひしに、稟准を得たる旨の語あり。本文七九〇頁、背革仕立て、まつたく薩摩辞書の面貌を移せり。

紀元二千五百三十三年

稟准

和訳辞書

明治六年十二月

 (一一)『英華和訳字典』 大本二冊、正誤付属一冊(六十七頁の正誤、明治十四年三月出版)、明治十二年二月の刊行なり。中村正直校正津田仙柳沢信大、大井鎌吉三人の訳なり。普通の英華字典に、仮名字の和訳を加へしものなれば、和漢英三国字典なり。校正者の跋文に「余此書ヲ校ス、明治五年十二月ニ始マリ、同十二年二月ニ畢リ、蓋シ六タビ裘褐ヲ易ヘテ、終ニ能ク完功ス」の句あり。

 筆者は、中村正直と『英華字典』について、憶ひ起こす一事あり。それは筆者が、往年著作せる『中村正直伝』に、『英華字典』筆写の一節を掲げしことあり。

   先生の家に伝はる所、桐箱入写本辞書十冊あり、その箱は、横長形の桐製にて、側面に、左の三行二十一字の題銘あり、実に先生の自ら書付けたる所にかゝる。

   此余所b費2精神1而写a者。故有2欲v用v之者1。勿3妄散2乱座間1。

   又箱の内面に、明治二己年仏誕日作2此箱1。

と、其箱の由来を記しおかる。先生の手細工だけに、其のさし蓋の溝加減など、をかしき点なきに非ざれども、先生の匠気の、尋常ならざりしを見るに足れり。

 箱内に納むる所は、美濃紙本十冊なり。開きて之を閲するに、鼠色に摺りたる普通原稿用碁盤罫紙へ、十八段づゝ筆写したる漢英辞書にして、開巻より終尾に至る迄、一字も草匆の体無く、謹厳に写し成せるを見る。第一巻の首に、

 乙丑八月廿六日写起、同十一月晦卒業

の十六字あり。乙丑は、当に慶応元年なるべく、先生年三十四歳の時にあり、……其写起卒業の識文より推せば、九十余日の精力を費して、筆写せられしものなるを知る。

 同書の末に貼り付けたる、一紙片あり。実にこの辞書原本所蔵家なりし、勝安房氏の書牘なり。

拝読、如命残寒一層を増候、益御多祥奉賀候、扨は御用立罷候英辞書、御鈔禄御卒

業に付、御返却被v成落手候、此書、横浜商へ御誂の処云々、如v仰此書は、昨年も参候儀にて候得共、上海辺書店には、偶鬻グものも有v之候哉と申候、既に拙取入候節も、二部持越、一部は他へ譲候、未だ此書上海書店には極て可v有2御座1と奉v存候、春来拝眉之折、万々御請迄、早々頓首。

   十二月念五                      安房

     敬輔様

   又この写本辞書中に、左の題歌あるものあり。

   ことたまの神の心を心ともなしてふみ見る君にぞありける

       明治十一年初春             安房

 これは、世態一変して、先生の名大に揚りし後、談当年の事に及べることあり、勝氏も十余年前の感に、即詠を題したるものなるべし。先生の此辞書を筆写するや、厳に自ら課程を立て、怠らず、時に、恰も歯痛を患ひたりしが、乃ち、水を含みつ、痛みを忍びて執筆し、之を筆写すること半にして、眼光濛々として痛みあり、常に冷水を座右に置かしめ、眼を洗ひては写し、余り精を込めて筆写したる結果、手首強直して、筆を執ること能はざるに至る。乃ち筆管を手頭に縛り付けさせ、尚書写して成業を急ぎしと、家人の述ぶる所なり。

 当時、辞書類の得がたかりし一斑は、これにて明らかなり。また当時の英学者は、相当に漢学の素養ありたれば、福沢先生が、清人子卿の『華英通語』を和訳して、会話の津梁とせしごとく、漢英辞書は、わが洋学者を益せしこと、少なからず。但し、『英華字典』の、始めて本邦に転入せられし年代は、いまだこれを究めず。

 辞書不足の時代の書生、勉強のありさまはいかなりしや。緒方洪庵蘭学塾にあつた福沢諭吉『自叙伝』は、安政時代の不自由を叙べていふ。

さて、其写本の物理書医書の会読を、如何するかと云ふに、講釈の出来る人もなければ、読んで聞かしてくれる人もない。内証で、教へることも聞くことも、書生間の恥辱として、万々一も之を犯す者はない、只、自分一人で以て、これを読砕かなければならぬ。読砕くには、文典を土台にして、辞書に頼る外に道は無い。其辞書と云ふ物は、此処にヅーフといふ写本の字引が、塾に一部ある。是は、中々大部のもので、日本の紙で、凡そ三千枚ある。之を一部拵へると云ふことは、中々大きな騒ぎで、容易にできたものではない。是は、昔長崎の出島に在学してた、和蘭のドクトルヅーフといふ人が、ハルマといふ独逸和蘭対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にも、たつた一部しかないから、三人も四人も、ヅーフの周囲に寄合て見て居た。