国語史資料の連関

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2003-02-15

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 明治十六年の『東京学士院雑誌』第四編に、神田孝平の「万国言語一致論」あり、一八八七年ポーランドザメンホフ博士の発明せられたる世界共通の新言語すなはちエスペラントなり。

 わが国にて、この新言語の研究と、普及とを計れるは、明治三十九年頃よりのことなりとす。すなはち三十八年の四、五月頃、東京帝国大学教授文学博士黒板勝美エスペラントに関する談話雑誌『直言』に掲げしときは、絶て反応もなかりしが、翌三十九年の五月、読売新聞に再び同氏の談話筆記を掲ぐるにおよび、やうやく世間の注意を引けり。すなはち、岡山の村本達三は、同地高等学校の英語教師ガントレツトが、はやくよりエスペラントを研究し、昨年の始めより、第一第二第三回まで通信教授を開き、すでに六百名の研究者を各地に有するを報じ、かつ自著のエスペラント語彙を添へて贈れり。ここにおいて黒板博士は、岡山においてすでに意外の発達をとげをることをも知れり。よりてガントレツトに交渉して、協会設立のことを計り、また東京孫子貞次郎?の創設にかかる協会を解きて、さらに一大協会を設くることとなり、六月十二日、神田一ツ橋学士会事務所に創立会を開きて、日本エスペラント協会を創立し、直ちに第一例会を開きたり。これを同会の誕生となす。当日集まりたるは、黒板、安孫子二氏を始め、森岡勝二、斯波貞吉、飯田雄太郎等すべて十人なりし。

 同八月に、報告やうの月刊雑誌を発行するに至りしが、同月までに会員数百に満ち、公刊されたる書籍には、長谷川二葉亭著『世界語』(二十銭、彩雲閣版)、ガントレツト・丸山両氏編『エスペラント文法』(三十五銭、有楽社発売)、加藤節編『エスペラント教科書』(八月中に出版のはず)、村木達三編『エスペラント字書』(二十銭、有楽社発売)等の書目見え、また夏季講習会を設くるなど、その勢ひなかなか盛んなりし(三十九年八月五日版『日本エスペラント』一巻一号)。しかれども僅々二、三年にして、その熱度もやうやく冷めたり。

 明治元年近藤真琴訳『新未来記』中に、「かく諸国の人打交り、皆々同じ言葉にて相語らふはいつくの言葉か」「これは旅の言葉といふものなり、諸国の人民次第に交はり、いつともなしに万国に普通の言葉いで来り、これさへ知れば何国にゆきいつくの人と語るにも分らぬ事のなき故に、旅ゆく人は誰もかも之を用ひていはざるなし、されども世界一般の言葉となるは猶此上数百年の後なるべし」といへるは、今日のエスペラント語の予言のごとし。