2002-08-30
■ 枕草子(195)
ふと心おとりとかするものは、男も女もことばの文字いやしう遣ひたるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字一つにあやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらん。さるは、かう思ふ人、ことに
すぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ心地にさおぼゆるなり。
いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらにいひたるは、あしうもあらず。我がもてつけたるをつつみなくいひたるは、あさましきわざなり。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。まさなきこともあやしきことも、大人なるはまのもなくいひたるを、わかき人はいみじうかたはらいたきことに聞き入りたるこそ、さるべきことなれ。
なに事をいひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにとせんとす」といふ、と文字をうしなひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」などいへば、やがていとわろし。まいて文に書いてはいふべきにもあらず。物語などこそ、あしう書きなしつれば、いふかひなく、作り人さへいとほしけれ。「ひてつ車に」といひし人もありき。「もとむ」といふことを「みとむ」なんどは、みないふめり。