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1936-06-01

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     第三十一章 呼格

 呼格とは文句中にある他の語と何等形式上の關係なしに立てる語の位格にして、その對象又は對者を呼び掛け指示する形をとるによりてこの名あり。

 呼格は上述の如き性質を有するものにして思想上の必要に應じ、如何なる場合と限らずあらはるゝものなり。これは思想上の関係より見ればもとより相對的のものなれども、語として表示せられたる結果即ち形の上より見れば他の語との間に形式上の拘束を起すことなくして、絶待的のものといふべきなり。

 この呼格といふものゝ言語上に存する内面の事情を考ふるに、これ實に吾人がある思想を表示せむとする時に了解作用に訴ふるの方法によらずして端的にその思想の中核たる觀念を提示するに基づくものなりとす。然れども、吾人がかく端的にその思想の中核たる觀念を提示する時はすべて呼諮となりてあらはるゝものなりやといふに然らず。かくの如き場合に使用せらるべき語は観念語のすべてに存す。たとへば席上を靜肅にせんが為に、一聲「しっ」といひ「静に」といひ「だまれ」といふが如きも亦思想上よりいへば呼格と略同じ精神状態に基づきて表示せられたる語なり。この故にこれらの場合に於いては西洋風の記載法によりて感點「エキスクラメーシヨン、マーク」を加ふることを得べし。されど、吾人はこれらを、呼格とよぶことなし。何が故にそれらを呼格と呼ぶことをせざるかといふことを講明する時はこゝに呼格の特質を明かに認むことをうべし。

 上の例の「しっ!」「静かに!」「だまれ!」などいふ語は、その一語のみを投げつけたる如く呼び掛けの形式によりて表示せられたる語たる點は呼格に似たる所あり。されど、その呼格と似控る點は思想の状態にありて、言語としての形より見れば、「しつ」「靜に」は副詞が或る思想の先行をなせるものにして、それ篷か発ぞはし意想發表のそれにつ碧きて`あらはるべき形式の語なり。即ちこれらは言語としての表示よりいへば、相待的のものにして、呼格が言語の表示として絶待的なるとは性質を異にせり。「だまれ』も亦思想上よりいへば呼掛の性質を有すれど、言語として表はされたるもの漣よういへば恥一泉陳述をなせるものと認めらるゝものにして、次に説明する如く相待的の表示たる性質を有するものたり。この故にこれらはたとひ呼掛の形式によちたりといふとも、語の位格としてそれ/゛\修飾格述格として取扱はるゝへきものにして、呼格と稱することを得ざるものなりとす。 これはその用ゐたる語が用言又は副詞たる時に必ずかくあらざるべからざるはその語の本質上避くべからざる點の存するものなり。こゝに於いて呼格としてあらはさるべき語は體言に限らるゝことをさとるべきなり。

 呼格に立つことを得る語は上述の如く體言に限るものにして、準體言體言に準じて取扱はるゝものなること既に述べたる如くなれど、その準體言といへども決して呼格には用ゐらるゝことなし。この故に純正なる體言としての特有の位格と認むべきものは唯この呼格のみなりとす。實に呼格は體言の最も根本的の運用方式にして同時に體言の本格的の運用方式はこの呼格にあるものと考へらるゝものなるが、體言の有する多くの位格はいづれも相待的のものにして、しかもそれらの位格は他の類の観念語を用ゐてもあらはし得べき位格なれば、こゝに體言體言たることの運用上の特徴は實にこの呼格たりうる事に存すといふべきなり。この故に、運用上よりして體言とその以外の品詞との區別を識別せむとするものはそが呼格に立ちうるか否かを以て標準とせば直ちに知らるべきものなりとす。この故に呼格に立つを得るものは體言に限れりといふを得べぐ、又之を逆にして體言特有の位格は呼格のみなりともいふことを得べきなり。

 體言が呼格として用ゐらるゝ状態を見るに二様あり。一は助詞を伴ふことなく體言そのまゝにあらはるゝものなり。、その例

 櫻花、ちりかひくもれ。

 藤の花、はひまつはれよ。

 きうぎりす、いたくななきそ。

 いかに辨慶。

 いざこども、尢わ\ざなせそ。

  香をだにぬすめ、春の山風。

 二は助詞を伴ひてあらはるゝものにして、その伴ひあらはるゝ助詞間投助詞「よ』「や」を多しとす。その例

  少納言よ、かうろほうの雪はいかならむ。

  苔の袖よ、かわきだにせよo、

  ゐひしげれ、平野の原の綾杉よ。

  あが君や、をさなの御物いひや。

  朝臣や、さやうのおちはをだにひろへ。

 呼格に立てるものをその稱格より觀察すれば、第一人稱なるは極めて稀にして最も屡あらはるゝは第二人稱たるものを呼格とするものなり。これらは命令、禁制、疑問をなす場合の対者たるものを呼格とせるものにして、上のすべての例はみなこの第二人稱者を以てせる呼格なるが、なほ

  いかに佐々木殿、蓬に見参し奉らず。

の如く對話の際の第二人稱を呼掛くる場合のものも少からず。又第三人稱なるものを呼格とすることあり。この場合には多くは感動文は希望の對象として、その第三人稱者を呼格とせるなり。或は主格として可なるべき第三人稱を呼格の形にしてあらはすものあり。たとへば

  まろがまろねよ、いくよへ漁らむ。

の如し。この場合にはその語を制限するに第一人稱の連體格を有すること多し。

 上にいへる第三人稱の呼格にして感動の對象を呼格とするものは、多くは上に連體格の語を伴ふものなるが、その下にも亦助詞をふめるもの多しとす。その下にふめる助詞終助詞「か」「かな」「よ」「や」等なり。その助詞をふめるものゝ例次の如し。

  あさみどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か。・

 き尢なき御方の振舞かな。

 妙なる笛の一音かな。

 此の花のうるはしさよ。

 さ\がにの絲をたのめる心細さよ。

 最後の姿を今一目みざりしことの口惜さよ。

 あらあもしろの歌や。

又下に助詞を伴はざるものあり。その例

 よのみじかくてあくるわびしさ。

 音のさやけさ。

 心づからにうつろふがうさ。

かくの如き場合はいつもその核子たる體言が、形容詞語幹に接尾辭「さ」の添ひてなれる名詞を以てするものなりとす。

 第三人稱の呼格にして、希望の対象を呼格とするものは、必ず終助詞「が」「がな」を伴ひてあらはるゝものにして、

  老いず死なずの藥もが。

  君が八千代にあふよしもがな。.

の如き形にてあらはるゝものなりとす。