1915-04-01
■ [方言意識史]昔夢会筆記
公 昔薩摩の人に逢った時に困ったことがある。話をしても言うことがちっとも分らぬ。向こうでは一生懸命しゃべるけれども、少しも分らぬ。何とも答のしようがない。ただふんふんと聴いたけれども、善いとも言われず悪いとも言われず、甚だ困った。
阪谷 御使者にでも来たのですか。
公 やはり国事のことで……。
江間 京都での御話ですか。
公 確か京都だった……。小松でも海江田でも吉井でも、それは話がよく分るが、その人のはちっとも分らなかった。薩摩人の次に詞《ことば》の分りかねるのは肥後人だ。これはどうもよほど分らぬのがある……。外国人が日本語で話をするのも実に閉口する。彼方《あちら》の詞だと分らぬと言えば向こうも止してしまうが、日本語で話すのに分らぬではどうも気の毒で、あれにはまことに困る。
昭和41年10月10日
pp.88-89
「公」は徳川慶喜。
【参考文献】
飛田良文「山の手の言葉の形成」『国語と国文学』1988.11